同時に、経験を積んで会社に属する一員としての地位が確固となればなるほど、考え方は保守的になりがちです。
つまり、仕事に就いてからの導入期、そして成長期、発展期、円熟期では、仕事に対する取り組みの姿勢も異なると言えると思います。「うつ病と診断されたからお仕事を休んで休養を取る」ということは言葉で言うのは簡単ですが、お休みを取ることに対する抵抗感がステージ毎に異なるのです。
さて、うつ病を「心の風邪」程度のものと感じていますか? 私はそうは思いません。
たしかに、うつ病の治療は進化しており、現代では有識者による、治療後の適切なケアの開発も進んでいます。そもそも、うつ病になると余命を宣告されるようなものでもありません。ただし……体の痛みをともなう病気と決定的に違うのはココです。心の苦痛は言葉では表現できないのです。表現できない苦痛が行き着くところにうつ病がもたらす最悪の結果として自死という結末があります。
それは言わば、うつ病特有の〝病死〟とも言えるであろうに、自死と置き換えることによって病状ではなく精神的脆弱によって自らの意思で…と、世間的にタブー視されていることは、当事者としては遺憾です。
話は横道にそれますが、病死と自死とでは世間の認知に格差が生じます。
その端的な例が不動産であると思いませんか? 入居者が病死した場合とそうでない場合、事故物件扱いか否かかの格差が生じます。
話を戻します。世にうつ病の改善薬であるSSRIが流通した当時、うつ病に対する認知度は「うつは心の風邪」というキャッチコピーによって、誰にでも起こりうる心の疾患だと流布されました。
もしここで、身近な病気であるがゆえのメンタルヘルスの重要性が社会認識されれば良かったのですが、幾分、偏見と偏見を助長する風潮は残ってしまいました。
その結果、現代でも心の病気は精神病であり、精神病を発症すると会社には言えない、近所にも秘密にしなければ異端視される、という根っこに残る自他の偏見が当事者の心を暗いものにします。
日本精神神経学会と各製薬会社の頑張り? によって、今となっては「うつ病」という病名を知らない人はゼロに近いほど告知は進みました。
そういえば、20年近く昔でしょうか? 職場で〝うつ病〟という病名を知っている人なんていなかったように思います。その後、うつ病は心の風邪のキャッチコピーもしかり、職場のメンタルヘルスを政策的に励行する社会の転化が行われ、統計的な視点では、うつ病による自死者数は減少傾向に改善しました。
じゃあ、うつ病の本当の苦しさまでもが、社会的認知されているか?
それには疑問を感じずにはいられません……。
うつ病という診断名の認知度は上がっても、そもそも、症状は目に見えないものであり、怪我の痛みのように誰もが共感的に「わかる」つらさではないのです。
差し詰め、うつ病とは体験しなければ理解できない苦しさがある。それが事実でしょう。あるいは非常に距離感の近いところでうつ病患者とかかわるかでしょう、つまり家族がうつ病になれば、当事者の苦しみや生活上に生じる問題について深く思考を巡らすようになるからです。
うつ病を理解するのは、本当に難題です。
私は、休職理由をうつ病によるものだとオープンにしましたが、SEという職業柄、職場にうつ病の仲間が比較的多かったことが後押しとなりました。なんにせよ、仲間がいれば自信がつくものです。そして、うつ病でも後ろめたさや偏見を感じる必要なんてないと強気でいられるのです。強気というのも妙な心理ですが、これは一理あります。それがいいか悪いかは別として、うつ病になっても目立ちませんから……案外、偏見に苦しまずにすむのです。
とにかく、うつ病には病状そのものによる一時的な苦しみに加え、偏見による二次的なつらさがあるのは事実です。
そういう意味では、うつ病になってもジロジロと特別視されないのは、通年、一定数が発症するSE業界に身を置いているからでしょう。これ、不自然ですがもっともな理由です。うつ病になってしまえば、案外、居心地の良いこの業界とでも言いましょうか…その一方で、職業、業界によっては、うつ病で仕事を休む理由と必要性を言えるか?それとも言わない方が良いか? の判断に迫られることもあるでしょう。
うつ病は心の風邪、良い意味でのキャッチコピーが人間に備わった偏見に染みこむように作用するには、まだまだ時の力が必要であるに違いありません。